香港:「点」と「線」

写真(上)は24年前(22年前じゃなかった)に住んでいた通りの標識。下は両親の寝室の窓からの風景。
以前に住んでいたところを訪れたことがあるだろうか。
高校生のころ、3年生まで通っていた小学校を訪ねた。記憶のなかではとてつもなく広かった運動場が、意外にこじんまりとしていたのが奇妙だった。引っ越して以来、会っていなかった友人たちは、同じところの同じ家に住んでいた。自分にとっては十数年間の断絶を経て「つながった時間」を、友人たちは「つながっている時間」としてそこで過ごしていたのだという事実に、当惑を感じた。点と点でしかその場所を知らない自分が、その場所を線(面)として生活している友人と「場所」を共有できないことに、さびしさを感じた。
今年の夏、香港で24年前まで住んでいた通りを訪ねた。不思議なくらいに何も変わっていなかった。口を真っ青にして叱られた桑の木もそこにあり、学校や教会、公園のブランコもそのままにあった。ただし、24年ぶりに訪れた通りには知らない人しかいなかった。「新しい時間」の住人ばかりになった街は、「以前の時間」をもってきた私を懐かしむことなどがあるはずも無く、ここでも何かしらの寂しさを感じずにはいられなかった。
なぜ、以前にいた場所を訪れるのだろう。変わっていないものを求めているのか、変わったものを確認するためか、自分の記憶が経験にもとづく(歴史的に形成された)ということを確認するためなのか、それとも変わった自分を認知するためなのか・・・。
引越しが多かったので、幼馴染がいない。私を「線」で知る人は両親を除くと誰もいない。両親でさえ、高校3年間、そして大卒後から今までの15年間を「線」で知ることはない。兄弟もお互いに離れて生活している。私自身を「線」で知っているのは「私だけ」・・・これが寂しさの源泉かもしれない。
それでも兄弟がいてよかったとつくづく思う。大人になって離れて生活をしてはいるものの、お互いに子供のころを「線」で知っている。トロントで一仕事をしてから旅行中の弟と時間をすごしたが、不思議なところでつながっていることを感じた。待ち合わせをするわけでもないのに同じ時間にロビーに下りてくるし、なんとなく感覚でつかめるところがある。つかめないところがあっても気にならない。
幼少時から一つの街(ブカレスト)でずっと育ってきたビオレタ(妻)は、たくさんの幼馴染がいる。そんなビオレタが幼馴染と会うと、それまでの空白の時間を越えた不思議な「超越」を見せる。人は「点と点」でつながっているのではないということを、弟と会って改めて感じると同時に、懐かしむだけでは故郷はできないということを思った。






















